その眼差しの彼方まで

アイドルと音楽と日記

240618:輝きが断つ

中学の頃だったか、保健体育の授業でセルフエスティームと口酸っぱく言われた時期があった。セルフエスティーム、直訳すれば自尊感情。自己肯定感とも。

「自己肯定感かぁ

 基本的人権 わかりますかね?

 人間が生まれながらに持つ当然の権利で誰にも侵すことはできません

 自由であることとか思考すること 社会に参加すること 人間は生まれながらに価値があること

 わたしはこの考えに救われたので社会科の教員になりました

 わたしたちには元々価値と自由があり 何者にも脅かされてはいけない 素敵じゃありませんか?」

「違国日記」10巻/ヤマシタトモコ

 

 

もういつなのか分からない。少なくとも7年以上前に社会学という学問を知って、素人なりに、子どもなりにいろいろ調べた。わたしの生きる上での苦しみの原因はわたしではなく、社会の構造から来ていることを知った。家庭環境の歪みは連鎖することを知って、構造を憎み家族を嫌いになることを回避した。ホモソーシャルという理論を知って、構造を憎み同級生を嫌いになることを回避した。人権を知って、自分の人生に対する値踏みをやめて漠然とした希死念慮を捨てた。社会学はわたしの苦しみをわたしだけのものにせず、社会構造に接続した。これは救いであった。

わたしの頭は暴言や悪意を許容しない代わりに憎しみを捨て、自己肯定感や希死念慮の存在、生きていく価値を判断しなくなった。強い情動があれば胸の奥の方に何かがある気がする。憎しみや絶望、無力感に近いものを感じれば心臓が痛むような心地がする。脳の仕組みに不可解を感じつつ、痛みは名前と場所を与えられないままどこかに消えていく。

 

わたしの脳は暴走車で、得た知識を燃料に朝から晩まで縦横無尽に走り回っている。子どもがめちゃくちゃに走らせるおもちゃのように、全部自分で走らせているのに衝突する。規則性はないように見えて、自分の腕で動かせる範囲なんて限られているから、何重にもかさなった轍は色濃くなっていく。ずっと同じところで事故を起こしつづけるのをわたしの心が眺めている。しばらくしてから、わたしはこう思うけどな、ひんやりとつぶやく。車を走らせていた手を止めて、初めて感情に気付く。目は合わない。またそれぞれ、車を走らせ、眺めている。走らせるほうも、眺めているほうも、もうとっくに景色に飽きている。ここから出たい。わたしを塞ぐ見えない壁の向こうに行きたい。

わたしとあなたのあいだには、わたしの感覚器官が、空気が、世界が、あなたの感覚器官がある。わたしの心はそのすべてによって形成される。あなたはわたしの一部であり、わたしはあなたの一部である。わたしはあなたを知ってしまったから。必要なのは、わたしとあなたのあいだに社会があると知り、わたしとあなたがまじりあえない事実を知ることだ。あなたの言葉を聴きたい。あなたもまたわたしと同じ人であることを知り、違う個人であることを知りたい。そうすれば、わたしを取り囲む壁を壊せる気がする。壁にすこしでもヒビを入れるために、知りたい。あなたの言葉を聴くためには、理知が必要だ。

 

 

わたしの、底意地の悪さを抱えながらも、倫理を保ちつづけようとする理性は輝いていると信じている。そうだと思いたい。結果はともかく、その光と、それを愛する心が、わたしにとっては自分の一番愛すべき部分だから。それと他人の創作物に対する愛をもつこと以外は、愛することができないから。わたしの頭は、愛することができないと思うことすらも許さないから。愛することを強要しない代わりに、愛せないことも許してくれない。他人がつくったものに対する愛以外の感情に自信がない。いままで自分が大事にしてきた創作物との出会いと歩みを抱きしめている。創作物、つまり他者への愛のほんのひとかけらでも自己の許容に使えればと思う。

この世の誰にも、理不尽な死があってはならない。人間がつくったものに殺されることなんてことはあってはならない。誰にも理不尽な目にあって欲しくない。できうる限り他者の尊厳を踏み躙らないでいたい、誰もが尊重され保障される社会であってほしいという願いは、愛でも倫理でもなくて、ただ居心地の悪さからきているのかもしれない。わたしは女であり先天的な疾患があって、基本的に体調が良くないし、実家との折り合いに悩んでいるし、書けないような困りごとが他にもあるが、一方で数え切れないほどの特権を有して生きている。人生への不安でいっぱいになるような額の奨学金を抱えていたとしても、高等教育にアクセスできるだけの環境があり、たまたま割と勉強が得意で学問に出会うことができた。そんな将来を幼少の頃から想像できる環境で育ち、紆余曲折はあれど実現されている。趣味に時間と金銭を費やす余裕がある。完全ではないけれど、小声でも反差別を口にして自分が脅かされない社会的安定がある。いまのわたしも不十分であり、もっと知らなければいけないことが、もっとできることがある。そう思いながらも日々の疲労と不安で頭が埋め尽くされる。理不尽はこんなものを書いている瞬間にも存在し、人のつくったものに殺される。また人が人を傷付けている。取り返しのつかないことばかりなのに、昨日も今日も動けなかった。願うだけではどこにも何も届かない。またミニカーが走る。うつろに見つめている。

 

自分の人生に対する不安がある。自分の不運が重くのしかかる。自分のみじめさに対する悲しみがある。存在を認識しているのに言葉にするのを別のところが止めてくる。息が詰まる。文字にできそうなときはどうにかして自分の感情を書きとめる。自分のためだけに書くには耐えられず、ある程度他人が読みやすいように、レトリックを、ユーモアを、嘘を、本当を、受け入れられやすそうなことを、ツッコミどころを織り交ぜる。本物じゃない部分まで自分のものになってしまいそうだ。それでも何も書かないよりはマシな気がする。ここには書けない感情もあって、そういうものをずっと掬えないまま今日まできてしまった。他でもない自分が自分を許さないことがアホらしくて、また出口を見失う。理性とかいうヤツは本当に頼りにならない。こんなものに感情を肯定されずとも動じない心がほしい。

 

 

忘れていたものがあった。いまのわたしには怒りがない。

綺麗事を愛している。純度の高い正論とは祈りである。