その眼差しの彼方まで

アイドルと音楽と日記

240823:糧

創作物で、現実とは異なる世界を描くときに原動力になるのはきっと願いだと思う。私は創作するのにあんまり向かない脳みそをしていて、いつからかそういう妄想がうまくできなくなって、だから想像でしかない。だからこそ他人の創作のことを愛している。生きていると、社会と人間に対して失望することのほうが圧倒的に多い。同じそんな地平に生きているはずなのに、それでも希望を捨てずに、できるだけ遠くまで届くように祈りを込められてつくられたであろうものが好きだ。きっとその背景にもたくさんの絶望と怒りがあるのだろうと思うから。

三宅唱監督が言っていた。世界の残酷さがベースにあって、でもその悲惨をわざわざお金をかけて再現するなんてなんか違うというか、その後をどうするかという世界を新たにつくって撮ることに、フィクションの意義がある、と。私もそう思う。この世を恨んで厭むこともきっと必要なときがあるけれど、私はそれでも世界を信じていたいと願ってしまうから。多少の甘えが感じられたとしても、背景にあるこの現実を少しでも信じて、少しでもましなほうに近付けたいという意思に触れるたびに勇気づけられるし、こういう人が他にもいるなら明日も自分のすべきことをしなければいけないと、心から感じる。

現実はそうじゃない。だいたいの場合、人は善のためには動かないことも、世界がほんの少しましになるのにすらとてつもない時間がかかることも、経験的に、歴史的に知っている。今も、私が意識する前からずっと戦争は起きていて、差別と排除があって、人がつくったものに人が殺されて、この世を信じ続けるのは難しい。

創作と現実の差に崩れ落ちそうになる。実際にはこんなことにはならないだろうと、次のカットが現れるまでのほんの数コンマの間に脳が答えを出す。あまりの隔たりに、祈りの強さと、無力を感じる。その乖離に泣いてどうするんだと同時に思う。

社会問題を扱ったエンタメがある。現実の世界はそもそもの構造からおかしくて、めちゃくちゃで、言うべきことが山ほどある。これを観た人が、自分の行動を省みることがあるだろうか。ある人にはただ感情のための装置として使われて、ある人は省みたとしても実践できなくて。正しくない鑑賞なんてないけれど、この作品で人が変わることもたぶん無いのだろうと、知りもしない現実を想像して絶望する。

自分もまた、フィクションに勇気づけられながら、その気力は自分の日々をやり過ごすために使いきってしまって、本当に考えたいこと、本当にどうにかしたいことに手が届かない。あまりに無力すぎる。ひとりだから、そうなのかな。誰かを信じることからはじまるんだろうといつも分かっているのに、この世が嫌いすぎる。信じたいのに、愛しているのに、なんかやたら言い訳して、ずっと安全圏にいる。

自分がいちばん関心をもてて力になれるかもしれないと思うことに、ほんの少しの積み重ねをできているかもしれないことに誇りをもっても、それを評価したい気持ちとこれっぽっち何になるのかと思う気持ちと両方ある。

こんなことを言って、またフォロワーからいいねをもらって、満足するのかな。ちょっと政治的だったり倫理にかかわったりすること言う度に、いつもそうなんじゃないかと思う。選挙には行ってる。私ができていることはただそれだけ。この状況に泣いていてもやっぱりしょうがないから、何にもならないから、エンタメでもフォロワーのいいねでもなんでもいいから糧にして、明日もなんかやらなきゃいけない、と思う。