陰キャだが根はおしゃべりなので、自分の話をしたいと思うことはわりとあるけれど、私にはLINEなどを送って話を聞いてくれと頼める相手はほぼいない。特定の人間に自分の話をすることが本当に苦手で、ずっとインターネットでフワッとした人間関係をやることで生き長らえてきたし、ちょっとした不安や混乱は高校時代の友人たちと繋がった鍵アカウントで、冗談めいた口調でポロポロ話し、それでも耐えきれなかったら暇な人を募って、根っこの部分には辿り着かない会話をして健康的な時間に解散する。友人たちのことは信頼しているし、連絡をとること、とりつづけることが苦手で、ツイッターでしか自己開示ができない私と7年も関わり続けてくれているだけで奇特な人たちだと思う。
世の中に対して、ずっと傍から見ているような感覚がある。自分がみんなと同じ土俵に立っている気がしないのだ。特に中学以降のこの10年はフィールドの外から、フェンスの外側からぼーっと眺めているような気持ちで日々を過ごしている。
先天性の疾患がある。初めて発症したのは小学一年生の頃だった。体育は参加できない種目があった。みんなが高尾山の山頂を目指すのを見送って、一緒に残った副校長にソフトクリームを渡されて、居た堪れないという気持ちを知った。運動会の徒競走の予行演習で、運動に自信の無い同級生に「走るのが遅くても膝が理由になるからいいよね」と言われた。結局その年の徒競走は膝が痛いとか言って参加しなかった。
怪我をしたり手術をしたりで、中一の頃は一年の半分を松葉杖で過ごす羽目になった。階段も坂道もワックスかけたての廊下も教科書で重くなったリュックも全部怖かった。怖くて、学校の中の階段を松葉杖で降りれないから、何階もある校舎の階段を、座って自分の身体を引き摺りながら降りていたこともある。目立つのも服が汚れるのも本当に嫌だったけど、階段から落ちる方が余程怖くて、周りの目なんて気にしていられなかった。
中学に入学してから最初の一ヶ月くらいは、家が近かった小学校からの同級生と一緒に通学していた。学校はきつい坂の途中にあって、その坂で何度も膝が外れた。その何度目かの転倒で、「また?」と言われたことを十年近く経って急に思い出した。ヤバい性格ではないはずの子がそう言ってしまうくらいには、私の膝はうまく機能していなかった。一度転ぶと痛くてしばらく動けない。誰かと一緒にいると迷惑がかかると学習した。悪化しすぎて体育はもう参加できないし、誰かと一緒に理科室や昇降口に行くことも難しいと思った。でも、何故か私が一段ずつ慎重に階段をおりるのを待ってくれた友人がいた。当時も嬉しかったけど、今考えると本当に貴重な人だった。あんまりそのありがたみを分かっていなかった気がする。ちゃんとお礼は言ったんだっけ。
高校ではいくつかの文化部を兼部して、そのうちのひとつが写真部だった。球技大会も体育祭も競技そのものには参加できなかったけれど、カメラを持っていれば場外に居場所ができるような気がした。少なくとも一年のころはそれがまあまあ上手くいって、私の写真を好きだと言ってくれる人もたまにいた。 他人と一緒に歩くことが、仲良くなることができなくても、どうにかして外側からできることをやって感謝されれば居続けられると思っていた。カメラを持ち続けていたことで、人手不足だった映画を撮る部活に誘われて、そこにいた人たちとはいまも縁が続いている。体育祭で派手に転んだのが悔しくて高一の冬にまた手術をして、学校はボロくてバリアフリーもクソもなかったから二ヶ月くらい学校を休んだ。
知らないだけで、内部疾患とかその他で私ほど目立っていなくても大変だった人達はいただろうけど、如何せん移動に支障がある自分の身体のことはとにかくネタにしていくしかなかった。電車通学で行動範囲が広がって、階段しかない場所にぶち当たる度に自分が想定されていないことに打ちのめされた。 別件で抑うつ状態のときにそういう場所に遭遇すると死ぬしかないのかもと思ってしまう。法的には障害者にならない自分ですらこうなのだと思うと頭がクラクラした。パッと見は元気そうに見えるから、駅のエレベーターに乗るときは自分が乗れなくなっても外からボタンを押して譲りつづけた。
大学に入ってから改めて手術をしようとしたら、新型コロナウイルスに阻まれた。2ヶ月丸々空けておいた長期休みは虚しかった。 私の疾患は確かに直接命を左右することはない。事故の可能性は大きいと思うけれど。決して後回しにされたわけではないのだが、規制緩和の結果として皺寄せを食らうのは誰なのかということをずっと考えていた。2回目の中止を知らされたときには数日後に瓦を割りに行った。その後の休みでどうにか両足を手術して、もう外科的にできることはなくなった。
松葉杖で病院に通い、せっせとリハビリをして、中学以降は手を使わないと伸ばせなかった膝が、自力で伸ばせるようになった。階段も一段ずつじゃなくてふつうに降りれるようになった。人の多い乗換駅で下り階段の選択肢を取れるようになった。まだ走れないし、ジャンプも正座もしゃがむのもできないけれど、このままめげずに生きていたら小学生ぶりにできるようになるのかもしれない。先月、1~2年ずっと膝に埋まっていたボルトを抜いた。そのときの手術台でファタールを聴いたのだ。
今の私は、傍から見たら“ふつう”の人だ。医療はすごい。歩くことすらままならなかった日々が嘘のような今がある。庶民でも適切な処置が受けられる社会に恵まれた。
それでも今も、街は怖い場所ではある。
階段は焦らなければ降りれるけれど怖い。いきなり膝が外れて落ちて、良くて骨折か悪ければ死ぬんじゃないかと思って生きてきた10年間は簡単に消えない。信号を渡る途中で転んで、気付かれなくて誰からも助けられなくて轢かれるかもしれない。人の少ない夜道で動けなくなるかもしれない。電車を降りるときに膝がズレて、そのままホームと車両の間に落ちてしまうかもしれない。
ずっとこんなことを考えているわけじゃない。街は恐怖で満ちているわけでもない。考え事をしながら、音楽を聴きながら知らない街を歩き回れる。一人旅でも大丈夫だし。それでも、ふとした瞬間に、ここで何かが終わってしまう可能性が脳裏に過ぎるのだ。
海に行くといつも、今津波が来たら確実に死ぬなと思う。私が海の中で一番よく知る相模湾はこの世で一番死に近い場所だ。死にたいときに海に行く。深く青黒い海面に近付いて、怖いと思ったら海に背を向けて砂浜を踏み締めて歩き出す。地震が起きないことを祈りながら。
手術のために費やしてきた学生時代の貴重な長期休みのあいだ、同級生たちはいったいどれだけ楽しんだのだろう。多額の医療費。松葉杖をついて歩いていたら後ろからぶつかってきて、転倒した私に見向きもせず去っていった人。急な坂を下れないから自分だけバスに乗って帰っている間の部活の友人たちの会話。更衣室でのおしゃべり。電車の中で膝が外れて次の駅で停車するまで床で身動きが取れず、そのあいだ誰も声をかけてこなかったあの車両。階段しか手段がないときに同行者に謝った回数。大学の校舎の階段から見えるらしい東京の景色。もしかしたら、迷惑をかけたことで陰で言われていたかもしれない言葉。両膝に残る傷。
私の人生にももちろん楽しいことはたくさんあるけれど、中学以降歩行にすら若干の恐怖を抱くようになってからは常に脳に自分の身体への不安と悲しみがあった。自分の身体なのにどうにもならないことがあって、それは地震のように突然やってくる。
考えても仕方のないことばかりだ。できないことはできない。ずっと外側にいた。人を避ける癖が治らない。一緒に歩いて欲しいと頼むこともできるはずなのに、それを言うのは怖い。外側から立ち上がって歩き出すのが怖い。でも、私はまだ動けないかもしれないけれど、一番外側からならば、私はあなたのことを想像していると伝えられるのかもしれない。
高校のときの、映画を撮る部活にいた友人たちと、卒業してからも年に3回会う。会って喋るだけで楽しいから、いつも同じ場所で集まっている。
このあいだ、出会って6年以上経つのに初めて一緒に遊びに出掛けた。足場の悪い観光地で、“ふつう”に助けられた。結構ビビりながらではあったけれど、楽しく歩けた。嬉しかった。