その眼差しの彼方まで

アイドルと日記

私とあなたは違う人間だから

去年の6月頃に書いたものを一部加筆修正したものの再掲です。

 

 

ずっと、悩んでいるというか、葛藤していることがある。

 

 

アイドル、ひいてはアイドルの人間としての在り方を解釈する、そして表現することについて。

人間を、「読む」こと、「語る」ことについて。

 

アイドルというのは、アイドル性というのはパーソナルな部分、つまりは人間性の上に成り立っている。彼らは、彼らが生きてきた日々を糧にしてアイドルという仕事をやっている。

 

彼らが雑誌やブログやSNSで言葉を残す限り、ドキュメンタリーの類が存在する限り、彼らの人間性の部分は商品となる。少なくとも現状はそう。もちろん彼らだって、仕事として意識的に言動を選んでいる。しかしそこから更に奥を見ようとしてしまうのがファンというか、人間の心理というものだろう。どんなものだって、どんな意図でつくられたのか、どんな人がつくったのかに興味を持つことは、とても自然なことだから。

だから、我々消費者が彼らの人間としての在り方に興味を持ち、解釈することは、おそらく許容されるラインだと思う。個々の例として、煽情的な売り方があったりするのも事実だけれど、今回の本題ではないので言及しない。

 

私がずっと悩んでいるのは、表現の段階。

 

加害的な表現はしたくない。誹謗中傷は当然許される行為ではないが、それとは別に「アイドルが目にして、傷付く可能性のある表現」はできれば避けたい。

そもそも「アイドルが目にして、傷付く可能性のある表現」とは何なのだろうか?「事実と異なる表現」か?

 

これを考えるにあたって、前提条件がある(ほかにもいくつかあるが、重要なものだけにしておく。私にとって現状譲れない部分だ。今後納得できる言説を読んだら何か変わるかもしれない)。

  • 全ての人間について、私たちはお互いに偶像を見ている
  • 読解つまり鑑賞は二次的な創作活動である
  • あらゆる読解は暴力になりうる

 

見てわかる通り、前提条件だけで手詰まりなのだ。

 

相手の偶像を見ている時点で、すでに事実からは離れている。極論であることは自覚しているのだが、私にとっては見ることすら暴力になりうるのだ。私は私にとってのアイドルを抱えていて、ほんもののアイドルから何かをつぎ足すようなかたちで自分の中で彼らのアイドル像をつくっていく。もちろん常にほんものをみようとしている。それが誠意だと思うから。でも実際は不可能だ。私とあなたは違う人間だから。関係が非対称だからじゃない。人間と人間だからだ。

 

もうすでに私にとっての暴力は始まっているのだが、読解の段階をみてみる。

言い換えれば、自分の中にいるアイドルを眺めて、そこに物語と意味をみいだす行為。

人間というのはなにか出来事があると因果関係があるように考えてしまう。物語と意味を求めてしまう。理由を見出そうとする。そういえばあんなことあったよね、だから今回もそうなんだよ、といったぐあいに。私はパターン思考の強い人間なので、心当たりが山ほどある。

これも事実と反するかもしれない。私の読解は、もしかしたら合っているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。本人以外にはわからないし、無意識で意思決定が行われるという話を踏まえれば、本人ですらわからないかもしれない。自分で作った物語に飲み込まれてしまうこともある。

 

ここまでで、私は自分の中にいるアイドルをみているだけで、まだなにも行動に移してはいない。ツイートしていないし、考察ブログをこしらえてもいない。人には思想の自由がある。まだ暴力ではないかもしれない。

 

 

ところで、事実と異なる表現は罪なのだろうか?

誹謗中傷や名誉毀損などの加害表現は当然アウトだが、私にとってのアイドルを書き留めておくこと、それを公開することは罪なのだろうか?【私にとってのアイドル=ほんもののアイドル】は成立しない。私にとってのアイドルはアイドル本人のものじゃない。私が受けとり、私自身が彼らをどう見たか、そして自分にとってのアイドルに何をつぎ足したのか、私の選択もあわせて生まれた偶像である。私だけのものでもないが、アイドル本人だけのものでもない。既に彼らの手から離れたものだ。私と彼らとでつくった記憶の蓄積である。ファンサのレポツイートと、人間性解釈ブログの間に線はあるだろうか?事実と同じかどうか、決められるのは誰か?

そもそも本人を傷付ける可能性がある表現とは何なのか?そんなの本人にしか決められないのではないか?けれど、私たちは対話ができない。ここで初めて関係の非対称性が問題になってくる。私がもしあなたを傷付けてしまっても、私はそれを知る由もない。

 

だから私はせめて、私の想像力を精一杯使って、あなたの尊厳を尊重して言葉を紡ぐ。情報ソースは必ず提示するけれど、私がどんなに論理的に考えたところで結局はただの主観だから、せめて主観性の強い言葉を使ってあなたを語ろう。客観性とか、事実とかそんなものは、言葉がある以上虚構である。科学的に立証されたこと以外は、みんな「どうやらそうらしい」ことを「事実」として扱っているだけだ。人間性定量的には測れない。私にとってのあなたがどう在ったか、私の世界にいるあなたがどんなひとか、ただそれだけを書こう。

 

私の解釈は事実じゃない。もしかしたらあなたを傷付けてしまうかもしれない。私はそれについて、ただただ不安を数えることしか出来ないけれど、それでも私は書くよ。これは私の表現だから。あなたをみている人間の記録のひとつとして、あなたを語ることを許してはくれないだろうか?事実ではなく、私にとってどんなひとだったか、それだけを語らせてはくれないか?

 

いや、許してくれなくてもいい、認めなくていい、私の解釈という名の欲望を引き受けなくていいから、あなたが在った、あなたを見ていた、ひとりの人間の思いの記録として、私の記憶を世界に刻むことを、どうか。

 

 

私のこの悩みは不必要かもしれない。無駄といってもいいかもしれない。そもそも私がただ明確な線引きが欲しくて、でもそんなの存在しなくて、私の気持ちに折り合いをつけたい、ただそれだけである。

 

この世界で生きるには、思考に言葉が必要で、あなたと私の全てを共有できないこの世界では、ある程度の割り切りが必要なのだろう。でも、あなたと私が全てを共有してしまったらアイドルは存在しうるだろうか?

 

私とあなたは違う人間だから、私はあなたを私の世界に抱えられるんでしょう?