その眼差しの彼方まで

アイドルと音楽と日記

アイドルは私を救わない

この2020年の夏、HiHi Jetsの配信ライブを見たあとに書いた日記がある。

 

 

 

ずっと前から、アイドルを生きる理由にしたくないなと思っている。

日々の楽しみ、くらいに抑えておきたかった。つらくてしんどい自分の生活を成り立たせるのはあくまで自分であって、自分の足で立たなきゃならないという半ば強迫観念じみたものが脳裏にずっとこびりついている。どんなにアイドルが私の精神を癒そうと、当たり前の事ながら彼らは私ではないから、結局頑張るのは私で、やっぱり私は孤独だった。救いとは何だろうとぼんやり思った。私の考えは甘い。

 

それでもやっぱり、この数年調子の良くない私の精神をつなぎとめているのはアイドルだった。

 

ジェシーが言う。

「ストレス発散できましたか」

 

 

昨秋と年明け、私はSixTONESのライブにこの身体で行った。アイドルに関わる上で、自分の身体性というものを意識する前である。

生きてて良かったなと思った。それほどに彼らのみせる景色は美しかった。自分の目に映る全てが美しかった。このあたたかい空間とともに、どうしようもない自分のことも丸ごと愛してしまいそうなほどだった。

 

TrackONE-IMPACT-のBlu-rayを何度鑑賞しようと、YTFF2020の素晴らしいパフォーマンスを何度巻き戻そうと、ふとしたとき、直接SixTONESのライブが観たいという思いが膨れ上がる。

 

この春夏、配信ライブをいくつか見たけれど、現実との境目が曖昧な中で終わったあとに残ったのは若干の疲労だけだった。私がみたアイドルのステージは本当に素晴らしかったし、ただ私の体力がなかった。視界の殆どを占める雑然とした日常の中に、アイドルの輝きを見ることがこんなにも難しいのかと思った。アイドルが笑顔を浮かべる画面の外には、私が目を背けたい現実がひしめき合っていて、それを無視するので精一杯だった。配信が終われば光は消え、全てが憂鬱で埋め尽くされた。

 

眩い輝きを放つパフォーマンスは、めちゃくちゃな人生をやっている私の惨めさをより濃くするけれど、同時に現実を無視する。そんな、ステージから零れ落ちるあの光を私は愛している。別に普段のライブでここまで考えている訳ではないけれど、改めて考え直す。やはり家のパソコン如きでは私自身を無視できるほどの光は出力できないのである。

 

私は写真や映像も撮るのだけれど、やはりカメラはこういうどうしようもなさを持っている。現実と仮想の区別が曖昧になっていく中で、人間の身体性の重要さが薄れるのと古い生活様式が戻ってくるのとどちらが早いだろうかと思いを馳せてしまう。身体性を忘れられない私たちは、いつになったら去年の今頃に匹敵するよろこびを手に入れられるのか。

 

 

話がズレた。

 

実際に、アイドルは私のことを救わなかった。鬱だか適応障害だかをガッツリ発症し始めた半年後くらいに出会ったのがSixTONESだったけれど、その後の1年間では健康にはなれず、大抵のものは崩れ落ちた。まあそんなものである。

結局どうにか鬱を脱したのは皮肉にも緊急事態宣言発令後の夏休みであり、私に必要なのは十分な時間的休息だった。そして一番はその後の友人たちとの会話で、そのおかげでどうにか今は自分の人生をやっている。

 

ただ、彼らがいなければ私はもっと身動きが取れない1年半を過ごす羽目になっていたことは想像がつく。ものごとは捉えようであり、本当のところはわからない。それでも、例え私の精神をつなぎとめていたのがアイドルだったとしても、毎日天井ばかり見ていた私を起き上がらせたのがアイドルでなくてよかったと心から思う。

 

 

アイドルが私の生きる理由にならなくてよかった。

 

恐らく私は「推し」が居なくてもどうにか生きていける側の人間だろうなと思う。春夏にようやく自我が芽生えて、自分自身の諸々が充実していればそれなりに生きていけるなと思ったのがこの秋だった。同時に、自分自身に注力し過ぎるとバランスを見失う私には、アイドルをはじめとした娯楽が必要なのもまた事実である。物事は常に複雑で曖昧であり、きっと半年後にはまた違うことを言っているだろう。

 

 

 

 

アイドルは私を救わない。

 

正確に言えば、救われたくない。

生身の人間の物語に救われるということ、救いを求めるということは、どうしようもなくグロテスクに感じてしまう。私には耐えられない。

 

アイドルの半生を、想いを、発言を、物語として自分の中に取り込んで、自分の人生の救済としてしまうことが恐ろしい。彼らの切実な過去を、エンタメとして切り取っていいものか。どんなにドラマチックであっても、物語として回収していいのだろうか。人は物語に自らの思いを織る。物語るということは、言葉というものは、時に祈りに、時に呪いになる。

 

 

アイドルの人間性を平然と踏みにじる私は、それでもなお彼らの精神性を愛でる。彼らの想いと、紡ぎ出された言葉を愛でる。私は毎日それを繰り返している。アイドル自身は折り合いをつけている(かもしれない)。しかし、生身の人間の半生を物語として消化することの恐ろしさは消えない。今があるから消費できる過去は、今がなかったらどうなっていたのか。常に危うい橋を渡りながら、私はアイドルを愛でている。

 

アイドルを愛する上で、一番安心できるのは音楽かもしれない。(大抵の場合)彼らが書いた訳では無い歌詞は、適度な距離感を持って、あるいは適度な曇を持って私の耳に届く。ちなみに私にとって本人が書いた詞ほど恐ろしいものはなく、一生自担のラップ詞に向き合える気がしない。だからこそHIPHOPの知識を蓄えて韻がスゲエとかフロウが良いとか言えるようになりたい。これは余談。

 

けれど例外はあって、アイドルというものは不思議なことに、自分が書いた訳では無い歌詞に、新たな意味を持たせてしまう。自身が歌う意味を、非言語の領域で歌に乗せてしまう。彼らの想いは物語となって歌に溶け、私に届いてしまう。そんな彼らの歌を愛している。

 

 

 

アイドルに救われたくない。

 

そう願う私は、毎日アイドルに救われている。

アイドルの物語を様々な形で自分の中に取り込んでいる。些細な言動に救われる。何ならコンマ1秒のふとした表情にだって救われてしまう。

彼らに救われることを恐れながら、何かが壊れるのではないかと危惧しながら、私は彼らの救いを愛している。虚像をつくる人間のあたたかさを、私は知っている。

 

 

 

10年以上前にテレビで出会った彼らは、きっと私のことを、私の知らないうちに救っていた。この2年間で痛感した。

 

今日、きっとまた感じてしまうのだろう。そして救われてしまうのだろう。

 

 

 

これからも、アイドルは私のことを救う。

けれどアイドルは私を救わない。

世界は単純に生きることも出来るのに、どうしても譲れない自らの性分に呆れながら、私は2021年以降も複雑なままでいる。きっと。

 

 

 

 

 

 

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